鐵で織りなす伝統の模様。
鋼材の加工技術と伝統美の融合が新たな扉を開く。
植木鋼材株式会社 一般鋼材、非鉄金属及び自社加工を主力とする鉄鋼販売業
植木 揚子
- 都道府県
- 栃木県
- 事業内容
- 一般鋼材、非鉄金属及び自社加工を主力とする鉄鋼販売業
- 会社名
- 植木鋼材株式会社
- 代表者名
- 植木 揚子
- 所在地
-
〒321-0111
宇都宮市川田町804
- 電話番号
- 028-633-6225
Factory Stories
ガレージからスタートした鋼材の卸売
植木鋼材は鋼材の加工・卸販売をおこなっている。
特徴的なのは、仕入れた鋼材をお客様の要望に合わせて一次加工をすることだ。その加工は、シンプルな切断から緻密な切断、アンクル曲げなど多彩だ。さらに取り扱う鋼材も鉄やステンレス、真鍮など幅広い。
そんな植木鋼材が、事業企画部部長の中村英雄を中心に新しい取り組みをはじめた。
『maasa®(マーサ)』と名付けられた新しい事業の根底には、これまで培ってきた植木鋼材の想いと技術が結集している。
植木鋼材は現会長の植木政行が1963年に創業した。
「会長は高校を卒業してから東京の鉄の卸会社に勤めて、10年で100万円貯めたら地元で会社を興すと決めていたそうです」
植木政行は10年かからずに資金を貯め、自宅のガレージに鋼材を置いて商売をはじめたという。これが植木鋼材のスタートだ。
そして中小規模のお客様に鋼材を「1枚1本1個」お届けする精神でコツコツと信頼を積み上げていった。
「当時は大手商社と取引する条件が厳しく、材料を買うことができないお客様が多くいらっしゃいました。会長はそういうお客様を大切にしてきたんです」
そんな地道な営業活動のおかげで、オイルショックやリーマンショックなどの経済危機の影響を受けず、堅実な経営を続けることができたそうだ。
10年間で売上が約5億増
住宅設備機器の卸売業者に勤めていた中村が植木鋼材に入社したのは2011年だ。
最初は配送部に配属され、商品の配送をしながら商品とお客様を覚えていったという。
2012年に創業者の植木政行の娘・植木揚子が社長に就任した頃に営業部に異動した。
「営業部での10年ほどはほとんど休むことなくがむしゃらに働きました」
植木鋼材の売上を伸ばすため、昼夜問わず営業にまい進した中村の努力は実を結び、入社当時は6億円ほどだった売上が11億に手が届くほどまで成長した。
中村が会社の成長のためにおこなったのは営業だけではなかった。
内部の事務を強化するための研修プログラムも作り上げたのだ。
「事務を強化しなければお客様からの注文をすぐに処理できません。当時は注文のメモを見ても寸法もわからないような状態だったので、3か月の研修プログラムを受ければ安心して仕事に取り組めるようにしました」
内部を強化したことで中村自身も営業に出ていきやすくなったという。内部の強化と営業力の両輪によって、植木鋼材は成長することができたのだ。
成長に導いた中村の想い
中村を突き動かしたのは、創業者である植木政行の「もう一度(植木鋼材を)挽回したい」という願いを実現させたい、という想いからだという。
「私が入社した当時は社長、専務というポストがなく、植木社長は現場から引退されていたんです」
植木揚子が社長に就任した際に会長・専務として創業者夫妻が会社に返り咲いた。
中途採用の中村が一心不乱に業務に邁進するほど植木政行を慕っていたのは、『栃木掃除に学ぶ会』を通して植木政行の人柄や実績、想いなどを知ったからだ。
「会長は『栃木掃除に学ぶ会』の発起人なんです。掃除に参加していると、全国の仲間たちから会長が凄い人だという話を教わりました。そんな会長の志や想いを感じて、私でお役に立てることがあるなら力を尽くそう、という覚悟が生まれたんです」
突然の異動と先の見えない船出
「2019年11月ごろに社長から突然営業部を降りるよう言われたときには目の前が真っ暗になりました」
営業として最前線を駆け、大きな売り上げを生み出していた中村にとっては青天の霹靂ともいえる辞令が出たのだ。
中村が新たに任されたのは、自分の力でゼロから新たなプロジェクトを生み出すことだった。
当時の中村は、大手商社とのプロジェクトに参入するなど、他のスタッフが追い付けないようなボリュームが大きく難易度も高い仕事をしていた。
「おそらく社長は「これ以上は中村もスタッフも大変だ」、「植木鋼材としてのキャパを超えてしまう」と感じて、ブレーキをかけるために辞令を出したんだと思います」
ブレーキという意図もあったかもしれないが、中村の実力を高く評価しているからこそ、自由な裁量の中で実力を発揮し、植木鋼材の新たな強みを生み出すことに期待したのではないだろうか。
新プロジェクトのスタートは2020年春と決まっていた。
中村は、営業部でおこなっていたように大手商社と連携したプロジェクトに取り組むことをイメージしていたという。
ところが、2020年の4月に新型コロナウイルスの緊急事態宣言が発令されたことで、中村がイメージしていたものがすべてリセットされてしまった。
「コロナがどうなるかわからない状況でプロジェクトが動かなくなり、商社の方と会って話すことも難しくなったからです」
そこで中村は土木建材関連の開拓に注目した。2019年の台風19号で栃木は大きな被害に見舞われた。そのことから栃木でも国土強靱化地域計画が策定され、災害に強いまちづくりに向けて動き始めていたからだ。
「1300社の門をたたいたんですが、建設業界と鉄鋼業界の間には筋を通さなければいけないルールがあるんです。それを超えるのはハードルが高すぎると判断しました」
原点を見直して辿り着いた伝統工芸と鋼材の未来
イメージした通りに新プロジェクトが進まずもどかしく感じた中村は、改めて植木鋼材の原点を見つめ直した。そして、植木鋼材が持つ資源は加工機だと思い至った。
「加工機や加工技術を存分に生かすことができないかと考えました。そんな中、当社のビジョンにある『ものづくりを支えるメーカーとしての役割』という言葉が頭の中でひっかかったんです」
そうして中村は「メーカーとして」できることを模索して辿り着いた答えが、鐵の繊細な加工技術を生かして生み出す美しい造形のオリジナル製品ブランド『maasa®』だ。
このアイデアが生まれた大きなきっかけは某外資系ホテルだったという。
「あるホテルで栃木の鹿沼組子(かぬまくみこ)をモチーフにしたデザインを利用していました。ですが実際に見たときにそのクオリティを残念に感じたんです」
そして植木鋼材の技術で鐵を加工したらどんな製品を生み出せるだろうかと考えたのだ。
そこから鹿沼組子の職人を訪ね、学びながら組子の繊細さを鐵で表現するための工夫を重ねた。
「組子の職人さんの技や想いを知っているので、それを金属で表現させていただく上で生半可なことをするのは失礼だという気持ちで真剣に取り組んでいます」
金属で再現する難しさ
複雑で繊細な組子の模様をレーザー加工で生み出すのは簡単ではない。
「組子模様を面に加工しようとするとどうしても板が暴れます。それをうまくおさえなければいけません」
板厚によっても暴れ方が違う。さらに機械がストップすればその部分の板が溶けて不良品になってしまう。どのポジションで板を抑え、機械を止めることなく一気に完成させられるかは技術者の経験と腕にかかっている。
「最初に依頼したときは「こんな細かい加工はできません」「無理です」と言われました。それでも挑戦してこの加工が実現しました。現場には現場のやり方があるのでそこは尊重して邪魔をしないようにしました」
こうして繊細な加工を実現し、maasa®のEDOstyleでは、91種類の組子デザインを選んでオーダーできるようになっている。このデザインは鹿沼組子の内装建具作品を制作している伝統工芸職人から受け取った伝統のある模様だ。
植木鋼材が新たに取り組む真剣な姿を認めてくれたからこそ、伝統工芸職人が自ら模様を提供してくれたのだろう。
maasa®が生み出す大きな可能性
中村はさらに組子模様の他にも曲線を生かしたデザインなど次々と新しいデザインに挑戦をしている。
「丸パイプに幾何学的なデザインを施した作品は、どの業者の方が見ても「どうやったらこんなのができるの?」と思ってもらえるような仕上がりになっていますよ」
組子以外の日本の伝統模様やヨーロッパの伝統的なデザインなど世界各国で求められるデザインを生み出すことが可能だ。
「点と点が繋がり線になり、面になり、面が重なり層が厚くなる。それによって新たなめぐり逢いがあります。つらいんですけど、すごく楽しいんですよ」
植木鋼材とmaasa®が生み出すストーリー
最初に中村が作ったコンセプトは『日本の伝統工芸を鉄で表現し世界へ伝える』だ。
このコンセプトを形にして素晴らしい作品をすでに生み出しているが、中村にとってはまだゴールではない。
「やりたいことはまだまだあるので、今はまだ準備段階といったところです」
世の中にないものを生み出し、多くの人をびっくりさせたいと考えているという。そのために今も様々な人と縁を結びながら、新しいアイデアを生み出そうとしている。
「異質な者同士が掛け合わさることでイノベーションが生まれると思います。まずはやってみることです。「失敗」という言葉がありますが、「敗れることを失う」ことが失敗なんです。だからたくさん敗れても良いんです」
植木鋼材が生み出したmaasa®という新しいストーリーはまだ序章なのではないだろうか。
さらなるチャレンジで生まれる美しく壮大なストーリーに期待せずにいられない。